専業主婦の「ためにならない」雑記ブログ

年少の息子アキとの毎日を書いています。時々は、旦那のことも。

★過去に遡る①〜父母を語る★

母は美しかった。


庄屋の娘である祖母と、武家の血筋を引く祖父の元に生まれ、一男一女の長女として、何不自由なく育てられた。
恵まれた環境で、甘やかされて育った母は、その美貌と、生まれつきの気性の激しさが相まって、見事に、高いプライドを備えた女性へと成長した。
高卒だった母は、大卒へのコンプレックスの裏返しか、頭のよい人間が大好きだった。特に、学歴のある人たちと積極的に交流し、彼らと同じ土俵で会話できる自分を誇りに思い、そうでない人間を見下していた。プライドの高さゆえか、常に現状に満足できず、日々、何に対しても誰に対しても、不満を募らせていた。
私は、そんな、母の負の感情を受け止める器として生まれた。

デキ婚と言う言葉が流行るずっと以前に、母は、5歳年下の父と出会い、私を身籠った。
当時、父はまだ大学4年生で、将来教職に就くべく勉学中の身だった。母が勤めていたデパートにアルバイトとして入社し、母の下に配属されたのがきっかけだった。父の強いアプローチで付き合い始めたが、当然、結婚の意思はなかった。

母は当時28歳。30歳手前の、女性特有の結婚願望は、もちろん持っていた。

が、相手は所詮学生。半ば諦めかけていたが、思いがけず、私を身籠ることで、母は、父を手に入れることに成功した。
無職の学生と、デパート勤めのOLは、OLの貯金を食い潰す未来で意見を合致させ、両家の反対を押し切って結婚した。

父は背が低く、お世辞にもハンサムと呼べる顔立ちではなかった。
しかしながら、そのハンデを補って余るほどに、頭の回転が早く、サービス精神旺盛で、会話は機知に富み、女性によくモテる人だった。
この頃からすでに父の周りには、不特定多数の女性の存在があった。そのことは母もよく知っていたはずだが、あえて見えないフリをしていたように思う。

 

学生だった父と、身重の母は、古いアパートで新しい生活を始めた。父は、授業の合間にアルバイトをしていたが、一家の大黒柱としての自覚はなかった。アルバイトだけでは、生計は成り立たず、生活費のほとんどを身重の母の貯金で賄った。
買いたいものも満足に買えない、生活苦の中で、私の出産予定日を一週間後に控えながら、お気楽な父は、大学の仲間と卒業旅行に出かけた。自分のアルバイト料と実母からのお小遣いの全てを、卒業旅行の資金に充てたという。

 

 

それでも、母は何も言わなかった。

母は父に固執していた。



大学を卒業して、1年間、就職浪人し、父がやっと教職に就いたころ、母の貯金は底をついた。裕福な出の母は、親からの支度金と、デパートの退職金とを、無職の、ヒモ同然の父と生まれたての私のために、使い果たしてしまった。

 

 

父は、頭が良くユーモアに溢れる人だったが、同時に、暴力的な人でもあった。

父が仕事に慣れ、教師としての自覚が強なるにつれ、父の家での暴力性は増していった。

私が2歳の頃、妹が生まれ、その翌年には弟が生まれた。私たちは、父の顔色を伺いながら過ごすのが常だった。幼稚園に上がる頃には、機嫌を損なうと、暴言はもちろん、暴力を振るわれることもあった。

小学校に上がると、特に、勉強の苦手だった弟や妹への風当たりは強く、私は止めに入るのも必死だった。止めに入ると、次は私が殴られる。恐ろしさを堪えて、無我夢中で抵抗した。

父は教師として、私たち3人に躾をしているのだ。

 

そういえば、小学生の頃、
家族で外出先から帰ってきたとき、父にお風呂を洗えと言われたことがある。
私は疲れていて、つい嫌そうな顔をしてしまった。途端、父は、ふざけるなと激怒して、お風呂のタイルに私を叩きつけた。父はとても短気な人だった。

 

母は、私たちがどんなに叩かれたり蹴られたりしていても、決して助けてはくれなかった。
父に逆らって嫌われるのが怖かったのだ。

 

せめてもの救いは、父が、母には手を出さなかったことだ。だが、母に対しては身体への暴力の代わりに、言葉の暴力を行なっていた。

俗にいう、モラハラの先駆けだった。
母が自分の失敗を認めず、言い訳がましいことを言うとき、父はより一層キレて言葉の暴力を振るった。
母の出かける準備が遅いときも、子供が愚図ったときも、勘違いも何もかも、少しでも気に障ることがあれば、父は母を罵った。父から母へ向けられる言葉のほとんどが、嘲りや罵倒の類いのものだった。
ところが、母はどんなに貶されても、父に逆らうことをしなかった。
それどころか、毎日、帰宅するかどうかも分からない父のために、晩ご飯を食べずに、いつまでも待ち続けた。真夜中に電話が鳴り、酔っ払った父から、他人の家に泊まって帰ると言われても、文句ひとつ言わなかった。


その言えない文句の全てが、私に吐き出されていたことを、父は、知らない。


父が家にいるとき、母はよく、「いつか離婚するつもりよ」と、笑って、冗談めかしながら父に語っていた。これは今思えば、離婚を仄めかせることで父を焦らせ、家庭を顧みてもらおうと願う、母なりの苦肉の策であったのだろう。

その作戦は、後に、赤面するほどの大失策に終わる。所詮は、母の言う学歴の差か、父の手のひらの上で弄ばれていただけだった。